モーション・ピクチャー・シューティング

MOTION PICTURE SHOOTING 自主映画制作記

アクション映画の憂鬱

シナリオの改稿を進めています。


しかし・・・


「なんだか時流に乗りすぎている」気がしてきました。

映画そのものではなく、扱ったネタがです。


一言でいえば「キナ臭い」という感じです。


最近の国政を見、未来の日本の姿を想像するほど、悪いニオイが漂う気がするのです。



現代日本で、いかにスケールの大きいアクション映画を成立させるか?」

というアイデアを十代の頃から練ってきました。

いくつかのアイデアはシナリオとして形に出来ました。


いつも、特にシナリオとして具現化する時、

「派手なアクションほど、大きな舞台を必要とする」

「アクションのスケールの大きさと、設定を作る難易度の高さは比例する」

ことを実感し、悩まされてきました。



例を挙げます(現代の物語の場合)。


素手での殴り合いがメインのアクション映画の場合。

中学生や高校生が主人公でも成立します。

だから、街角の不良少年の争いの物語は、“リアリティある”アクション映画として常に作られています。


徒手格闘でも<いい大人が殺し合い>となると、ハードルの高さがあがります。

「なぜ武器を使わないのか?」

「このオトナは普段ナニをやっていて、なんで素手でこんなに強いのか?」

といったところにリアリティがある設定をしなければなりません。

フィクションでよく使われるのが【アンダーグラウンドの闘技場】って舞台ですね。

腕に覚えのあるオトナが命を賭ける地下コロシアム。

文字で書くと気楽な設定のように思えますが、

小説やマンガで成立させるのより、実写映画はハードルがさらにあがります。

このアリーナはどこら辺に存在するのか? 入場料金は? どうやってチケットを買っているのか?

実写の場合、そこの観客の顔が、生の人間の顔が映されます。

舞台の端っこの<殺し合いを見に来ている人たち>の顔にもリアリティがないと、大舞台も台無し。

スクリーンを観る我々観客がシラケるだけです。


カーチェイス

車と道路がある舞台ならどこでも成立します。

でも道交法無視、時速100キロオーバーの派手なやつは設定が大変です(撮影も)。

日本で、実写で最も派手にやっているのは【走り屋】モノではないでしょうか。

法の網をすり抜け、公道上でモンスターマシンを競わせる人々は実在するのです。

このリアリティが、スケールの大きなカーアクションの映像を成立させているのです。



銃撃戦や爆破。

まず銃と爆弾を使えるキャラクターを成立させなければいけません。

警官や軍人(元~を含む)。

警官と軍人は、法律によって存在し、社会情勢に動きを左右されます。

簡単に言うと、

警官がバーン、軍人がドカーンとやるのは、法と社会に照らし合わせてそれなり以上のリアリティがないと成立しないのです。

経験上、火薬の量が多いほど大きな舞台を必要とし、設定に苦労します。



ハナシを私のシナリオに戻します。


設定のため必要としたリアリティのあるネタが・・・


映画が完成した際、悪い方向で現実的になる可能性を考えてしまうのです。


我ながら悪く言えば「シロートの娯楽映画のネタにしては重すぎる」、


良く言えば「時代を先取るかのような、なんてタイムリーなネタ!」。



私のアンテナの方向は間違っていないと思うのです。

でも、

キャッチしたものをいつ、どう表現するかに

作品を世に問う前の作家の責任があると考えます。



日本のアクション映画をリードしてきた映画監督の言だったと記憶しています。

【気兼ねなくアクション映画がつくれるように、日本は平和であってほしい】


映画が“社会と寝る”表現である以上、この言葉には矛盾があるかもしれません。

アメリカの警察のような重装備の対テロリスト部隊SATが、テレビドラマでもフツーに活躍できるようになったのは、街中で≪テロ警戒中の為・・・≫という表示がされるのが、日本で日常化したからです。


作り話の中の戦いが気楽に眺められる日常。

私もそうであってほしいと願います。





余談 


銃撃と爆破、第三のキャラ。


犯罪者、犯罪組織の人間たち。

犯罪は社会の鏡、それなりに設定のリアリティは必要になります。

でも、犯罪者どうしが野蛮な戦いを繰り広げる事に関しては、万国共通、問答無用の“現実性”があると思います。

素手、刃物、クルマ、飛び道具、ダイナマイト・・・

「生き残るためなら何でも使いそう。だってワルイ人たちだから」!


ワルvsワル。

法や社会に刃向うことで存在する者たちのアクションは、一般人にとってのリアリティ(観客側の世界の常識)という縛りから、最も自由なのです。

ゆえに最も派手にできて、最も設定に苦労しないのが、

アウトローの殺し合いの物語です。

数えきれないほどの死体が転がっても、

「だって、悪い人たちだし・・・ね」

というエクスキューズまで備えている。

ああ、

古今東西、どれだけのフィクションとその作家が、

悪党たちの屍のお世話になったことか!